その前に、鍛えることが先ではないの。
ミャンマーに住むほとんどの人は、何らかの神や存在を信じている。
街中には寺院がたくさんあって、熱心にお祈りをしている姿をよく見る。
わたしも時折パゴダに行って、ありがとうございました、と言う。
パゴダに行った夜は、ストーンと眠れ、朝起きたときも何だか暖かい。
でも、時折思う。
たとえば嘘を知ったとき、
たとえば自分のミスを自分から言い出さない人がいたとき、
たとえば新卒採用で学生のカンニングが発覚したとき。
そういう不誠実に触れたとき。
この国の人たちは、心を整えよう、と
いろいろなことをしているかもしれないけれど、
逃げたい心や、
実力がともなわないのに結果だけ得たい、なんて楽したい心に、
(実際はその結果、ある会社に入社したとして、
実力がないからついていくことなんてできないのに。)
打ち勝てるような心を鍛えることが先ではないの、と。
心の芯がなく、誘惑に惑わされる、確たる自分がない
「信じる」っていう言葉にはどういう意味があるんだろう。