人間を生かしているのは、化学反応ではない。
生命科学専攻でリケジョとして学んできたわたしは、
人間を生かしているのは、化学反応の奇跡的な連鎖だと思っていた。
だからこそ、6年という時間を生命科学の勉強に費やした。
その奇跡に感動したから、少しでも知りたかったのだ。
2018年2月、父が危ないと聞いて、緊急で日本に帰国した。
父が亡くなったのは、私が日本に帰国してから2日めのことだった。
帰国当日は、1番良いスーツを着て、病室に行った。
「そこにいるの?来たの?」と問われて、手を握ったら
反射のように彼はその手を握り返して、眠った。
もう会話はできなかったけど、それでじゅうぶんだった。
帰国して2日目、母といつも通り、見舞いに行った。
危ない、といった報せも何もなかった。
母と私は、父がこの夜も当然越えてくれると思っていた。
そんないつも通りの母と私の姿を見て、その直後、彼は息を引き取った。
ただただ、わたしたちがいつも通りやってくるのを、待っていたようだった。
わたしが日本に帰る前、父の意識レベルと血圧がぐんと下がったそうだ。
思えばそのとき、彼の体内の化学反応の奇跡の連鎖は事実上止まり、
命もつきていたのかもしれない。
それでも、彼を数日生かしたのは、待つという気持ちだったと思う。
式には、わがままを言って、父の好きだった桜と梅を用意してもらい、
わいわいがやがやと過ごした。
桜と梅と父の傍らで酒を飲み、ウクレレを弾いた。
亡くなった瞬間の父の顔はどこかぽかんとしているように見えたが、
(彼自身も理解できていなかったのだろう)
式の当日はどこか微笑んでいるように見えた。
それは人間の筋肉の自然のありかたと言えばそれまでだが、
人間が最終的にこんなに穏やかな顔になるとしたら、それでいいじゃない、と思った。
ミャンマーに帰ってきてから、支社の社員の一人が
「残りの人生の時間は、わたしがイッショ。」
と私に言った。一緒、だけ日本語だった。
その言葉を信じるも信じないもまた、その人の考え方だ。
日本でたくさんの人にお世話になり、日本は温かく美しい国だと思った。
そして20代前半の子がそんな言葉をかけられる、
今わたしがいるこの国もまた、いろいろなことを教えてくれる国だ。
病から解放されて身軽になった父は、いつかこの国にひょっこりとやってくるだろう。
そのときを、今度はわたしが待っている番だ。