死んだ人間は、何のために生きているのか。
ふと、父の墓のことを考えることがある。
彼はこの春、私にとても大きな
人としての学びを残して死んだ。
法要を終え、母から「お墓どうしようか?」と聞かれた。
それまで一度も与えられたことがなかった母からの宿題に、
半年以上たった今も、私はこれといった回答をせずにいる。
彼の墓のことを考えるとき、まっさきに思い浮かんだのは、
父の故郷だった。
彼がこの先をずっと生きるのであれば、
彼の故郷が最適だと思った。
死んでしまった父は
この先、未来永劫を生きる人になった。
それは事実ではないのだけれど、わたしのなかで
限りなく事実に近い、感覚だ。
ただ、父の故郷を思ったその後、いつも引き戻される。
彼の故郷と、母が住む海のある街は、あまりに遠かった。
だって、父は死んだじゃないか。
彼が生きているのは、伴侶として連れ添った妻と
子と、そして彼の兄たちや両親のなかだけである。
彼はこの先を何のために生きていくんだろう。
そう思うと、彼を最期まで思い、
彼が最期まで待った母の近くで眠っていてほしいと思ってしまう。
そこまで考えていつも、わたしは思考を保留する。
そのうちに答えがやってくるだろう、と
その日を待つことにする。
彼が生きるこの先、気が遠くなるほどの年月に比べたら、
とてもちっぽけな年月、わたしは母とその日を待っている。