リケジョのミャンマー赴任記。

湘南育ちの品質保証。ミャンマーから日本に帰国。仕事、人生、めいっぱい楽しみます!

死んだ人間は、何のために生きているのか。

ふと、父の墓のことを考えることがある。

彼はこの春、私にとても大きな

人としての学びを残して死んだ。

 

miwakaiz.hatenablog.com

 

法要を終え、母から「お墓どうしようか?」と聞かれた。

それまで一度も与えられたことがなかった母からの宿題に、

半年以上たった今も、私はこれといった回答をせずにいる。

 

 

彼の墓のことを考えるとき、まっさきに思い浮かんだのは、

父の故郷だった。

彼がこの先をずっと生きるのであれば、

彼の故郷が最適だと思った。

 

死んでしまった父は

この先、未来永劫を生きる人になった。

それは事実ではないのだけれど、わたしのなかで

限りなく事実に近い、感覚だ。

 

ただ、父の故郷を思ったその後、いつも引き戻される。

彼の故郷と、母が住む海のある街は、あまりに遠かった。

 

だって、父は死んだじゃないか。

彼が生きているのは、伴侶として連れ添った妻と

子と、そして彼の兄たちや両親のなかだけである。

 

彼はこの先を何のために生きていくんだろう。

そう思うと、彼を最期まで思い、

彼が最期まで待った母の近くで眠っていてほしいと思ってしまう。

 

そこまで考えていつも、わたしは思考を保留する。

そのうちに答えがやってくるだろう、と

その日を待つことにする。

 

彼が生きるこの先、気が遠くなるほどの年月に比べたら、

とてもちっぽけな年月、わたしは母とその日を待っている。